« ぐうハリボめ »


人工的郷愁

先日図書館でベスト盤「神の祭り、風の歌」をみつけたのをはずみに姫神の再評価中。

でも上記ベストは個人的に選曲がいまいちで、87年のベストを別途求めることになった。姫神の作風はシンセサイザー色の強い前期とボーカルやボイスを押し出した後期に大別されると思うのだけど、後期はDeep ForestやEnigmaの後追い感が強く独特のうら寂しさを失ったように思え、一部のヒット曲を除いてあまり印象に残っていない。ちなみに中心的人物であった星吉昭氏は既に亡く、御子息がその名を継いでいる。

分類としてはニューエイジ・イージーリスニング・ヒーリング・民族音楽といった胡散臭い領域に属し、喜多郎・宗次郎あたりと並べて挙げられることが多い。なぜ姫神を好んで聴いたのかというのは当時特に意識もしていなかったけれど、シルクロードを想うよりも日本にフォーカスを絞ったドメスティックで泥臭いセンスを、いかにもなオカリナよりもシンセサイザーによる逆説的な現代的表現を好んだからだったのかもしれない。

日本の音楽とはどういうもの(だった)のか、というのは子供の頃から漠然と考えていたことで。それはロック・ポップスを「判らない」という両親との世代間断絶でもあるし、洋・邦楽の隔たりでもある。アメリカ人が聴くように自分はロックを聴けているのだろうか、そうでないなら自分にとってそういう音楽はあるのだろうか。ルーツというか文化的背景のような何か、既に自分の中にあり、自然と出てくるような音楽が存在するのだろうか、と。(しかし「東京産まれHiphop育ち」って隔世の感があるなー)

そこで姫神は日本の心だ!、とかそういうことが言いたい訳じゃない。それはたぶん日本の心「のようなもの」というのが正確なのだろう。古典楽器や伝統芸能による純邦楽を自然に感得するには隔たりすぎ、他の多くを取り込みすぎてしまった自分が、それでも容易に受け入れられる、いかにも日本「的」な、括弧による留保付きの「故郷」の音楽。一度抽象化され、人工的に再構築されたそれは、そこに咲くことのできなくなった花を模した一種の造花のようなもので、決して本物とか精髄とかいうものではない。しかし、それで構わないとも思う。そして喩え本物に辿り着けたとしても、その美しさは変わらないとも。

本物と贋物というチップ音源やDTMにも深く根差した問題意識、あとはゲーム音楽にも通じる旋律の強さだとか、商業BGM的なアンビエンスとか汎用性だとか、いろいろひっくるめて自分の音楽傾向に姫神の与えた影響は相当大きいのではないか等と云々。