« 青葉冷肉とか »


妄想規制

ぽつぽつ局所的に話題になってるレイプレイ事件は表現の自由とかよりは嗜好の多様性への耐性の話になってる気がする。多様なのはいいことだとか言う気もあまりないけど。

結局ホモは殺せとかいう次元から、Every Sperm is Sacredとか高らかに歌いつつ空撃ちするなら姦っちまえとかいうヒューマンネイチャーなファナティックが出てきて収拾がつかず、最後は外野からとりあえずお前等黙ってろ四肢切断して喰うぞ的な流れのようにみえます。古典的な異端文学からナスティなアレコレまで先行する表現とのバランス的にどうなのかとか、只のハードコアと芸術はどこで分かたれるの要は説教すりゃいいのという疑問も。アングラに潜る潜らないはこれだけフラットに情報空間が広がった今モラトリアム以上の意味があるかというとないだろうし(それで十分という見方もあるが)、ゾーニングで見ない権利と未成年を保護すれば後は好きにやらせるべきだとも思う。人の欲求と市場形成力は偉大で、性的嗜好がマーケティングとクリエイティブの相乗効果で広がっていくという面は確かにあり、でもそれ止めるべきものなのと問われると、さてどうなんだろう。女性地位のデフレスパイラルを防げというのはまた随分で、そいつは封殺ではなく対抗言論と啓蒙で実現すべき事柄なんじゃないか(個人的に思想の自由市場はあまり信仰してないけど)、そのむかし人種差別者には唾を吐きかけてよいという方向に風向きが変わった、それがどういう力学によるものだったのかは良く知らないけど、それはヘイトスピーチの禁止によってだったろうか、と。そもそもそういう話なら、男女不平等な封建的風情漂う古典作品群も古き悪しき時代への反動を生むのでまとめて焚書にかけるのが筋のような気がする。それでも敢えて規制の方向を探るとするなら、エロよか犯罪行為の方向で縛るとか、でもそれクライムゲー方面と同じじゃん、というわけで現状は特に動きようがないよね、で終わりなんじゃないかななどととりとめもなく思うのでした。

そもそもこの事件で何か新しいことがあるかというと今回のは(3DCGによる表現力向上とか、児童ポルノ周辺の変化とか外圧であるとかいう個別の些事を除けば)177以降の過去のポルノ規制議論の焼き直しに留まり、それらを経て業界の今の地位があるわけで、人の商売を引っ繰り返すならまずは過去の議論をまず踏まえることから始めるべきだろうと。ただまあ、この手合いはとにかく騒いで社会問題化したら勝ちというところがあり、物知らずと馬鹿と不寛容な潔癖性が三つ巴になって仲良く議論喧嘩しながらそれを後押ししていくさまはむしろ喜劇の範疇に属する気も致します。ひどい時代だ。

普段あんまそういうの遊ばない巨乳忍者界の巨匠B先生があるゲームの後味悪いストーリーに素でへこんで半ばキレているのをみて以来、18歳ってのは単に性的な成熟を意味するんじゃなくて、歪んだキツい表現に対する許容性を獲得しているという意味も含んでいるんじゃなかろかと密かに思っています。ああ、あと地雷耐性も。望みすぎでしょうか。